外側に承認を求めること

最近改めて思う事があった。それは外部から認められようとすることほど自分をすり減らす事はないということだ。もう自分でも分からないレベルで癖になっており、事が上手く運ばなかった時にとても落ち込んでしまう。

必要なのは自分で自分を満たしてあげる事、認めてあげる事なのに、外側の眼を気にしたり、社会的立場を考えたり、人に気に入られようとしてしまう行動を取ってしまう事が後々に自分の首を絞めてしまう事になる。

そして何より怖いのは、そうする事によって自分が本当は何を望んでいるのか?という事が置き去りになってどんどんズレた方向に進んでいってしまうという事かもしれない。

承認欲求は誰にでもある、といえばそれまでかもしれないし、人間臭いといえばまだ救いがある美談になりそうな気もする。けど、なんだかそういうの、本当にもういいやっていう気持ちになった。無意識レベルで昇ってくる事なので容易でないのは承知なんだけれども、日々の小さな選択から自分の望みにフォーカスする行為はいくらでもできるし、なぜそんなにも承認を求めるのか、その理由を指し示すような幼年期の記憶や経験は自ずと思いだすと思うからその都度ケアをしてあげることもできる。

人は変化が起こる時、孤独になります。でも自分は独りだ、と思っていても本当はそうではないと思う。ちょっとふわふわした話になってしまうかもしれませんが、今日公園で生ぬるい風が吹いていて、木々がざわざわと音を立てているのを聴いた時、なんだかとても不思議な安堵感に包まれました。自分も自然界の一員でそのままで大丈夫なんだと背中を押してもらった様な、そんな感じがしたのです。

昨日、とある方がお悩み相談をとある方に寄せていました。お悩みの内容は、子供が制服を着たがらないといった内容。私は個人的に着たくないのならそれでも良いのではないかなあとも思います。通園している途中で突然着用したくなるかもしれないし、なにより何故着たくないと感じるのか、その根源にその子しかもっていない個性が潜んでいる様な気がする。社会的・世間的な問題にもぶち当たるのでこれもまた容易ではないと思うけど、その子のその欲求というものを外側の眼を気にしてうやむやにしてしまうのは何か、その子の中に灯っている炎を消してしまう様な気もする。その子がその後どういう決断を下したのかは分かりませんが、正直であれ、と思いました。

そして最近、自分と10歳以上歳の離れた子たちと触れ合う機会が多かったのですが私が出会ったその彼らは嫌なことにはきちんと嫌、と不満を言える子達が多かったです。その点でもなんだか明るい未来を感じる事が出来たし、自分を見直す良いきっかけにもなりました。

風の時代の到来と言われていますが、自分土の呪縛にだいぶかかってんなーと思った、よ!(爆)

話が二転三転しましたが、誰にも替えがきかない自分の人生なので自分の心が思うままに突き進んでいってぶち当たっても苦しゅうない、それは自然のサイクルの中にきちんと入っている証拠だと思えば痛くないと思うのです。何より、自分の意識が変われば周りも自然にそのサイクルに組み込まれていき、そこで立ち往生してしまう人間関係とは縁が薄くなっていく事もあると思います。全ては新陳代謝、と、自分の手に出来た傷が治癒していく様子を見て思います。

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